宿題をやる習慣が身についていない場合、「宿題」という響きはストレスになるかもしれない
宿題をやることの意義について「少し別の視点」で考えてみる
宿題は「自分のため」と思っているとなかなか行動に移せないことが多いのではないかと感じる
もちろん自分のためだと確信できて頑張っている人は本当に素晴らしく、皆そうであってもらいたい
けれども中には宿題をやることが苦手な人もいる
原因は必ずしも自身にあるとも限らないと思う
もし宿題というものが「誰か大切な人のために届けないといけないもの」だったら、人はその宿題をやると思う
「別に届けたって誰かがそれほど大切にしているものではなく単に義務的なものだ」と過去の経験から感じるようになっていたら、人はその宿題をやらなくなると思う
そうなってしまったら、いくら先生がその子のために考え抜いた宿題を出しても、その子の不合格を絶対に見たくないという気持ちから出していても、なかなか子供には伝わらなくなっている
お母さんはそういう姿を見て心配に襲われる。子供を絶対に不合格にさせたくない「祈り」からそうなる
先生にとって宿題とは「過度に負担をかけたくないけど、絶対に不合格になってほしくない」という「祈り」を形にしたもの
宿題とは先生が何か利益や評価を得るものではない。子供に強制しようというものでもない
もし言葉にするなら「不合格にさせたくない」という「祈り」「願い」
お母さんを心配させてほしくないという「祈り」「願い」
宿題とは子供に強制したいものではなく、先生やお母さんの「心からの祈り」「心からの願い」なのだ
先生やお母さんにとっては大切なもので必ず届けてほしいものなのだ
宿題は自分のためになるものだけど、少し違う視点からみると人生の先輩である先生やお母さんの経験からくる大切な子供への「祈り」「願い」なのだ
「宿題やった?」という言葉は子供を責めている言葉ではなく
「祈り」「心からのお願い」なのだ